20年来の夢から見えた自分のアイデンティティー~独立への想い

 中学生の時に思い描いた、「自分の家を自分で設計したらどんなに楽しいだろう」という夢とその目的。その思いはずっと持ち続けていました。高校生の時に両親が実家を建て替えていたので、自分で実家を建て替えるという選択肢はまず無し。そのため、長男ですが実家には入らず土地を買って新築するつもりでいました。

 ハウスメーカーにいる時から、よくプランは考えていたものです。6パターンくらいは描いてあったと思います。土地も決まっていないのに。また、実家には入らないものの、ハウスメーカー時代の拠点は茨城であり、土地を買って新築するにしても、「やはり地元・館林で」、「生まれ育った実家に近い地域で」という思いがありました。

 河本工業への入社という形で地元・館林に帰ってきた事で、その夢はいよいよ現実味を帯びてきます。入社2年目に土地を購入しました。場所は生まれ育った小中学区内で実家からも車で5分程度。広すぎず狭すぎず、自分にとってはまさに完璧と思われる土地。その後、仕事優先で自宅は後回しになってしまう事もあり、着工したのは土地を購入してから約3年後となってしまいましたが、後回しにはしつつも、頭の中ではいつも考えていて、その時間はとても楽しかったものです。3年間もあったからかも知れませんが、最終的には当初のプランとは全く違う家が出来上がったのでした。

 その中でも、思っていたよりも厳しい”現実”として直面したが予算の問題。20年来の夢ともあり、当然「アレもやりたい」、「コレもやりたい」というイメージはたくさんありました。しかし多くのお客さんと同じように、私にも”予算”がありました。歩合制だった前職営業マン時代よりもずっと少ない収入により、思っていたよりも銀行からお金が借りられないという厳しい現実に直面しました。しかしこれはどうしようもなく、受け入れざるを得ない現実。そこで辿り着いたのが、無駄のないコンパクトな間取りと、極力コストを抑えつつも効果的に観る人を惹きつける上質なデザイン。以下はその後の自分の設計のコンセプトの一つにもなっています。

 予算が無いからと言って当然、よりによって20年来の夢だった自分の家で妥協などしたくありません。ちょうど、前述の設計事務所物件に携わっている最中であったこともあり、そこで覚えた天然木や手づくりの風合い等、譲れない意匠もありました。これは価値観にもよりますが、私の場合は自宅の”質感やグレード”を落としたくありませんでした。今後設計者としてやっていくためのステータスというか、要するに見栄を張りたかったのです。それらを残して如何に予算内に収めるか。そうなると単純に面積を抑えるのが一番という結論に至ります。徹底的に無駄なスペースを省き、最終的に廊下の無い、2階建て29坪余りのとても合理的な間取りが出来上がったのでした。

中学生の頃からの20年来の夢、”自分の家を自分で設計した”『方形屋根の家』

 

 そうして念願の自宅を建てたあとも、更に実物件でいろいろと試行錯誤するなか、なんとなく”自分のカタチ”らしきものが見えてきます。特に、河本工業の住宅展示場を任された事が大きな転機となりました。

 会社としてのコンセプトは『超断熱』。省エネがクローズアップされる最中、とにかく断熱に特化するというもの。日本一熱い館林において、圧倒的な断熱性能を実現するという明確なコンセプト。実際のところ、外皮平均熱貫流率UA値0.26W/㎡・kという、当時全国でも屈指の断熱性能を誇る住宅が完成しました。ただし、”断熱性能”とは目には見えないもの。UA値0.26を実現するだけでそれなりのコストは掛かるし、いくら『超断熱』と謳っても、「それだけでは売れない」という思いが私の中にはありました。一方「デザインは任せる」という事に。会社のお金で自分の好きな家を建てられる、そしてそれを存分にPRできるという絶好の機会をいただいたのでした。

 それまでに自宅のほか何件かで試していた事として、まず自分の好きなデザインは現代和風。それを構成するのが懐の深い軒、それと風合い豊かな天然木を使用した外装や面格子、そして費用を抑えつつもその外装材として使用した風合い豊かな建材を内装にも効果的に使いたい・・・等々。これらを『超断熱』とは別の、もう一つのコンセプト『小町造り』として明確化したのでした。これらのコンセプトは、『美咲造り』として、今でも私のアイデンティティーとして根付いています。

2018/10/12日刊木材新聞に掲載。写真は自宅『方形屋根の家』。

 

 一方、一級建築士にもなり、地元でたくさんのお客さんに恵まれ忙しい日々を過ごすなか、たまに、ごく稀に頭をよぎる事のあった”独立”。でもあくまでも頭をよぎるだけで、そんな度胸も無いし諸々現実的では無い、という結論ありきでした。しかし2016年夏、あるお客さんと話をしている時でしたが、ちょっとした事をキッカケに本気で独立を考え始めます。河本工業へ来て8年目、37歳の時でした。

 「世間的にはこの年齢で独立なんて遅いかも知れない」、「でも人生80年としたらまだ半分」、 「それまでの40年は経るべくして経た、その先の40年のために必要な準備期間だったのでは?」、「人生の後半戦、むしろここからが本番なのでは」、「中学の時から志してきた建築の仕事は今でも好き」、「その好きな仕事に残りの人生を賭けられたら一人の人として幸せなのでは」、「40歳になる2019年3月、河本工業へ来てちょうど丸10年」、「ここしか無い。逆にここを逃したらもう一生独立など出来ない」・・・と、盆休み中に一人眠れずに熟考した挙句、2年半後の独立を決意したのでした。

 好きな仕事ではありますが、時には忙しすぎて考えてしまう事もありました。自分本位の身勝手な考えではありますが、このまま一会社員として一生懸命働いて、その間幸せなのか、そしてその先に何が残るのか・・・。しかし「2年半後に独立する」と決めた途端、迷いは無くなったものです。まさに霧が晴れたというか視界が開けたというか。「なんか空気感が変わった」と言われる事もあった程でした。その後もお客さんに恵まれ忙しく過ごしましたが、自分の人生の本番のためにと、何事にも前向きに充実して過ごせた期間でした。

 そして、独立する事を本格的に家族に伝えたのは決意してから約2年後。反対されるのが恐くてなかなか切り出せないのもありましたが、そこは良くも悪くも我慢強く、一度決めた事は曲げない性格。口に出した時にはもう決まっているのです。

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