試練の営業研修~一躍トップセールスへ

 就職先をハウスメーカーに絞ってはいましたが、決め手は”実家を建てた”というだけの準大手ハウスメーカーに無事就職。それはたまたまと言っても過言ではありません。でも一つだけ、どのハウスメーカーだとしても、もし万が一、仮に建築以外の仕事だったとしても、「営業だけは絶対ムリ!」と自分の中では決めていたのでした。そもそも建築学科で学び、最初から何かの営業マンを目指す人もあまりいないとは思いますが。

 大学生の時にコンビニでアルバイトをしていた事がありました。お客さんが来たら「いらっしゃいませ」、買いを物をして帰るときは「ありがとうございました」。極々あたり前の事ですが、当時の私は「いらっしゃいませ」や「ありがとうございました」と言うのが嫌だったのです。今となっては自分でも信じられませんが、「この人たちは用があるから店に来ているのに、なぜ頭を下げる必要が?」という幼稚な思考ゆえ。そのため「営業だけは絶対にやらない」、もしくは自分には向いていない、と決めていたのでした。営業=”へりくだった”とか”ヘコヘコした”、というイメージがあり、プライドが許さないというか、それが嫌だったのです。しかし、後にこの考えが如何に幼稚で愚かなものであったかを身を持って知る事になり、また自分の人生にとって欠かすことの出来ない大きな経験値となるのでした。

 ということで、実家を建てたハウスメーカーには当然、技術職として入社。”設計”というのは無く、”営業”か”建築”(技術職)のどちらかでした。「とりあえずここで経験を積みながら一級建築士になって、10年後に独立だ」という程度の浅はかな考えのもと。

 しかし、建築社員として入社した者も、最初の半年間は”研修”としてまさかの!営業をやらされるのです。完全に営業社員としての扱い。2棟の契約が取れればその時点で建築社員に、契約が取れなくても半年後の10月には建築社員になれるというものでした。運良く(?)2件の契約を取って6月くらいから建築社員になった他支店の同期が3~4名、逆に、その半年間の営業研修が辛く、建築社員になれる10月を待たずして辞めてしまう他支店の同期社員が何人もいたものです。そもそも、他社の事はわかりませんが、少なくとも私のいたハウスメーカーの営業職はとても出入りの激しいものでした。私が入社したあとも、何人もの中途採用のおじさんたちが入ってきては辞めていく、早いと1週間で辞めていった人もいました。私が入社した時に可愛がって面倒を見てくださった先輩たちも次第にいなくなっていったものです。

 確かに”辛い”のです。毎日事務所に帰ってくるのが21時前後、その後日報処理したり報告したり、帰宅するのは早くて23時、プランや見積を作成する時は徹夜の日々。何より、売れない人はそこにいる事の許されない”勝負の世界”だったのです。原則として、9ヶ月売れなければ解雇というのが暗黙の了解。建築がどうのこうの以前に、”社会人”として歩み始めたばかり私にとって、それはとても厳しい現実として映ったのでした。

 要領が良い方ではないと自覚していますが、案の定、私は運よくすぐに契約が取れる人ではありませんでした。今思えば、社会に出たばかりの世間もろくに知らない小僧に、一生に一度の大きなお買い物を任せてくれるお客さんなどいないのです。実際のところ、2棟の契約を取って建築社員になった同期は身内の家、もしくは先輩が付けてくれたようなものでした。程なくして、少し前に持っていた考え、”営業=ヘコヘコ”なんて、かすってもいない考えであったと解り始めます。仮にヘコヘコしたって家は売れないのだから。では「どうしたら売れるのか」、その答えが解らないまま月日だけが経っていくのでした。

 3ヶ月売れないでいると、毎月休みの日に厳しい研修に駆り出されます。新卒研修中の建築社員だからといって例外ではありません。4月から6月まで売れないのだから7月から研修へ。”部長面談”といって、地域の支店を統括する事業部長のところへ呼ばれてお説教をいただいた事もありました。そうして嫌になって辞めていく人もいるのだとも知りました。

 そんな社会の厳しさに直面し、このままで良いのか・・・と早くも心配になりながらも、我慢強い私は”営業”としての日々を過ごします。「やるからには契約を取ってやる」というつもりでしたし、”辞める”という選択肢は無かったものです。もし売れなくても10月になれば自動的に建築社員になれる・・・という淡い逃げの期待があったもの確かだと思います。

 そんな折、契約になりそうなお客さんと出会います。6月くらいからずっと追いかけていたお客さん。敷地調査をして、何度もプランを描いて、工場見学にも来て頂いて、何かにつけて用事をつくって20時ごろ訪問しても嫌な顔一つせず家に上げて頂き、”鎌田くん、鎌田くん”と言ってとても可愛がって頂いている手応えもありました。そうこうしている間に出入りしていた競合他社も排除でき、”もう自分しかいない”という状況で迎えた9月。自分の中では”イケる”と思って疑う余地もなく、何より「この人と一緒にこの先の家づくりをしたい」という気持ちになっていたのです。10月から建築社員になる事は最初から決まっていた事ですが、ここでご契約頂いて、10月から建築社員になる私が現場も~というシナリオで、支店長を伴いいざクロージングへ。

 しかし、そこで返ってきた答えは「今は契約出来ない―――」。

 「このお客さんのために」と本気で思い、行動し、その一生懸命さは伝わっているという手応えはありました。でも契約はして頂けないという現実。あとから聞きましたが、傍から見ていた支店長や先輩からすると、それ程アツいお客さんではなかったとの事。フラッと来た展示場で私に出会い、私が一生懸命やっているから付き合ってくれていたけど、家を建てる需要がそれほど感じられないというお客さん。実際、そのお客さんはその後何年も家を建てず終いなのでした。

 それはそうと、絶望の淵に立たされた私。「このつらい営業研修もいよいよ今月で終わり」という希望が頭をよぎります。でもそんな事より、この半年間で1棟も契約が取れなかった事が悔しい。そして「このままで良いのか―――」と。それと「あそこまでやっても契約にならなかった、逆に家の契約とはどこまでやれば取れるのか」、「一棟で良いから契約を取ってみたい」となります。それは他の同期から見たらあり得ない選択だったろうし、実際のところ前代未聞の選択だったようですが、「一棟契約が取れるまで」と自ら営業研修の延長を志願したのでした。

 そうは言っても、その時点で入社から既に契約”0件”で6ヶ月が経過。リミットと言われた9ヶ月まであと3ヶ月しかありません。当然、このまま契約が取れずに解雇―――というプレッシャーは相当なもの。そんなプレッシャーに押し潰されそうになりながらも、その後の3ヶ月は”必死”。そうして忘れもしない2003年12月21日、入社9ヶ月目にして、ついに初契約を上げるのでした。同時にそれは、私の設計した建物が初めて街に姿を現す事が決定した記念すべき瞬間でもありました(→後述)。

 その後、その3ヶ月間の必死な努力は、”誠意”や”一生懸命さ”といった良い形でお客さんに伝わり、同月の29日には2棟目、最終的には4件のご契約を上げ、無事に社会人1年目を終える事ができました。そしてその勢いのまま2年目は支店で一番の契約を上げるまでに。次第に地域の支店を統括する事業部内でも名が知られるようになり、実質は新しい展示場を任される形で4年目からつくば・土浦方面へ異動。新天地でも1年目当時の”誠意”や”一生懸命さ”を忘れる事なく、100名前後いた事業部の中でもNo.1の成績を上げるトップセールスへと成長を遂げたのでした。

自分の設計した建物が初めて街に姿を現した、思い出の初契約のお宅(2004年竣工)

 

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