痛感したこれまでの経験の浅はかさ~”本当の”設計業務と建築

 30歳になる年の4月に、地元館林の最大手・河本工業株式会社へ。私自身は河本工業についてあまり良くは知りませんでしたが、両親や親戚は大いに安心したのではないかと思います。「河本なら安泰だ」と。実際、入社して程なく、館林における河本工業の影響力を目の当たりにします。あの大きなショッピングセンターも、あのホームセンターも、あのドラッグストアも、あの公共庁舎もあの病院も、あの駅も、あのコンビニも、あのアンダーパスも、私が出た中学校も・・・少し大げさかもしれませんが、聞けば聞くほど、何もかもが河本工業で施工した建物や道路。結構すごいところに入社したんだな実感しました。

 そんな河本工業ですが、私は希望通り、”あの”気さくな部長と優しそうな課長のいる住宅事業部に配属。会社としての”設計部”というのはありませんでしたが、住宅事業部の中の”設計担当”という立場。営業担当、設計担当、施工担当と3つに分かれる中、私が入る前は何年もの間”設計担当”というのは上司になる人ひとりでやってきたそうで、その人の直属の部下として配属となりました。”設計担当”という、当時の私にとってはこの上なく響きの良いポジションでした。とは言っても、図面を描いてばかりいるワケではなく、営業担当と同じように営業もしました。これまでやってきた自負と自信があったので、それはそれで望むところでしたが、ハウスメーカーの営業マンだった私からすると、毎月のように受注になるのかならないのかを会社や上司から迫られるプレッシャーは皆無。逆に、営業担当と同じように仕事を取ってくる他に、その先の構造図や実施図の作成、建築確認をはじめとする諸申請、外部の設計事務所が設計した図面を読んで見積を作成する積算業務を行うのは上司と私、設計担当の二人だけ。時には薬局やら喫茶店やら、ちょっとした工場の改修やら、それまでにハウスメーカーでやって来た事よりも更に専門的かつ多岐に渡りました。そのため”誰にでも出来るわけではない専門的な仕事を任されている”という優越感が少しだけあったものです。

 前職で営業マンとしてやってきた自信、また即戦力として雇って頂いた自覚もありました。実際のところ、これまでやってきた営業としての経験は”地元”に帰ってきた事でさらに威力を発揮し、1年目からお客さんに恵まれます。”プラン”にもそこそこの自信があり、それまでの河本工業にはあまり無かったデザインのプランも描いてきました。「河本の家のデザインが良くなって来た」と聞こえてくる事もあり、少なからず住宅事業部に”新しい風”を吹き込めた感がありました。

 一方、より専門的に”設計”、というか”建築”そのものについて、これまでの自分の経験や知識がいかに浅はかなものであったかを痛感する事が度々。ハウスメーカーにいただけに、簡単に言うと自分のいたハウスメーカーでの仕事と、そのハウスメーカーの建物しか知らないのです。

 例えば、ハウスメーカーにいた当時に”設計”と言っていたプランを作る作業は、所詮間取りとパースだけの、文字通り”プラン”でしかなく、当たり前ですが”プラン”だけでは現場で施工は出来ません。高さや厚みがいくつなのか、どんな部材がどのように組まれた構造なのか、どんな建材をどう納めるのか等々。河本工業は施工会社なだけに、施工が出来なくては単なる”絵に描いた餅”なのだと気付かされました。

 また、当たり前の事ですが違法な建物を設計するワケにはいきません。建蔽率や容積率、道路斜線や北側斜線といった最低限の法規は知っていましたが、建築確認申請業務は河本工業へ来てからが初めてでした。

 

 少々長くなりますが以下が最初に直面した苦闘のエピソード。

 お客さんに恵まれ、入社間もなく営業としても担当した最初の物件が神奈川県川崎市内の崖のような場所に3方が道路に囲まれた細長い敷地、しかも準防火地域、そして木造3階建て、約260㎡の住宅。前職でやってきたように、お客さんと打合せを繰り返し、斜線(高さ)制限に苦労しながらも3階建てのプランを固めるまではさほど苦ではなく、紹介筋のお客さんだった事もあり、受注まではスムーズに進んだものです。しかしその先の実施図の作成、建築確認申請に大いに手こずるのでした。

 まず、木造3階建てという時点で構造の審査が入ります。前職時代から”プラン”は散々描いてきましたが、構造は私にとって未知の世界。しかも準防火地域で木造3階建てなので準耐火建築物とする必要がある、そうなると200㎡を超えているので防火区画(竪穴区画)が必要となる、さらに最高高さが10m超えるプランだったため日陰規制も掛かってくる、そのうえ電波障害関係の川崎市の条例にも引っかかってくる・・・等々。私はもちろんの事、さすがにここまで来ると上司も、半田部長も、私が入社する以前から時たま作図を外注していた設計事務所さんをも含めた、誰もが未体験ゾーン。とりあえず必要であろう図面を添付して審査機関に確認申請を出したものの、次から次へとチンプンカンプンな指摘や質疑が大量に帰ってくる日々。法令集と睨めっこしながら図面を直したり、追加したり、一つ一つ地道に潰していくしかありませんでした。なお、指摘や質疑が返ってくる度にウンザリしながらも、これまでは建築士の試験勉強としてしか使っていなかった法令集を実務で使用する事により、「本格的な”設計”業務に踏み込んでいる」という実感と「名実ともに一級建築士になるんだ」という意気込みのような、妙な充実感を味わったのもこの時でした。

 それはさておき、条例をクリアするために電波障害調査を行い、近隣住民の方々を相手に説明会を開いたり、周りでは誰も描いた事の無い日影図を描いたりと、たくさんあった指摘や質疑が徐々に減ってきます。そして最後に残ったのが竪穴区画の問題でしたが、ここで持ち前の”我慢強さ”、というか粘り強さが功を奏すことに。

 ごく簡単に書いてしまいますが、準防火地域で木造3階建て→要・準耐火建築物→しかも200㎡超→要・竪穴区画となり、要するに3階の階段室に防火設備(扉)が必要という状況。階段室に扉となるとせっかく決まったプランの動線が変わってしまい、そもそも防火設備など見積に入っておらず、かと言って今更200㎡以下とか2階建てに変更できるはずもなく・・・。そこで「そもそも本当に準耐火建築物にしなくてはならないのか?」と考え始めます。かすかな望みを持ちながら、何か抜け道は無いかと隈なく法令集を見漁りました。そして見つけたのです。

 何条の何項であったか、今となってはすぐに出てきませんが、何やら開口部の計算をして数値がクリアできれば準耐火建築物にする必要が無い、という旨の条文に辿り着きます。そして、これまで散々指摘や質疑を返してきた審査機関に逆質疑。すると、実際にその審査機関ではその条文を適用した前例が無いとの事でしたが、確かに合法であるとの返事を引き出します。あとはその条文に基づいた計算をするための図面を描いて、計算表をまとめて基準をクリアしている事を証明するのみ(これはこれで大変でしたが)。

 最終的に、建築確認済証が出たのは最初に申請してから実に3ヶ月後。当然着工は遅れ、お客さんにも現場にも迷惑を掛けてしまいましたが、自分にとっては貴重な経験となったのは言うまでもありません。振り返れば河本工業での約11年間、住宅以外の店舗や事務所等も含め、おそらく200件を超える確認申請を行ってきましたが、ここまで苦労したのはこの物件が文字通り最初で最後。この先もまず無いのではないかと思います。1年目にこの確認申請をおろす事が出来たことは少なからず自信につながったのでした。

 

 その他、”見積”についても同様、本当の積算業務というものを体験します。

 ハウスメーカーでは”見積”と言っても、会社で決まっている㎡単価と施工面積を掛け算して金額が出るだけ。例えば、柱1本がいくらなのか、鉄筋1kgあたり、またはコンクリート1㎥あたりいくらなのか。恥ずかしながらそんな事は全く考える由もなく”見積”と言っていたものです。

 最初のうちは上司の手伝いでしたが、外部の設計事務所の描いた図面を読んで、それを見積るのです。ところが、見積が、単価がどうこうの以前に、図面を見ても意味が解らない。「これは平面図で、これは立面図である」という事くらいは解りましたが、描いてある意味が解らないのです。いわゆる「図面が読めない」という状態。特に各部の詳細図みたいなものは、図面を見ても、何を使用してどんな物が出来るのかが解らなかったものです。基本的に、”オプション”はあるものの、ハウスメーカーというのは”標準仕様”が決まっており、結局自分はその”標準仕様”と”オプション”しか知らなかったのでした。

 

 ”営業”としてはそれなりの自信を持って入社したものの、”本当の”設計業務、”本当の”建築といった面ではまるで素人だった私。しかしそれは現実として素直に受け止めざるを得ず、積極的に学びの姿勢で臨んできました。そして新しい事を学びながら「本来やりたかった仕事に就けたんだ」と実感できる、充実した日々を過ごしたのでした。

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